巻第一上
隋天台智者大師説
法華文句
巻第一上、
隋天台智者大師説
門人灌頂記
法華文句
巻第一上
隋天台智者大師説
門人灌頂記
天台法華疏序
鏡中沙門神逈(しんけい)述
叙して曰わく、至理には名無けれども、名、四天之下に流れ、眞乘は動ぜ不れども、動じて三界之中に出づ。證教は事に即して、而も凝然たり。
悉檀、縁に隨いて、而も物を化す。無謀の汲引、功莫大なる哉。妙法蓮華經とは、仁雄の出世に洎(およ)んで、一大事因縁之爲に説きたまえる所也。
但し、藥木同じから不れば、潤を受くること異を成じ、機宜、一に匪(あらざ)れば、教を禀くること亦差あり。其れ權を施すや、則ち、鹿苑四諦之法輪、其れ實を顯わすや、則ち、鷲峯三變之淨土なり。旨深く、詞寡く、人尊く、道高し。壽量之遠本を彰わして、伽耶之近迹を會す。雨吹撃演して、昔説之筌蹄を廢し、開示悟入して、今家之魚兎を獲、微塵の菩薩は、道を増し、生を損ず。草庵の聲聞は、小を恥じ、大を欣う。藥王は臂を燒きし、而も供養し、多寶は全身以って證明したまえり。圓極の冲微、得て、而も言う可から不る也。天台大師というひと有り。法號は、智顗、昔、如來の前に於いて、親しく茲典を聽けり。位は五品に居し、聲、兩朝に振う。
講肆を歴不して、佛乘懸かに解し、陀羅尼の力、樂説窮まら不。
常に陳主の大極殿に於いて、御(みかど)に對し、仁王般若經を講ず。萬乘、膝を屈し、百官彈指せり。且らく觀心釋の如き、妙有無を離る。眞性を取って、軌と作し、資照に藉りて、徹を成ぜり。名を叙して宗を詮すること、古徳に異なり。五義をもって理を覈(きわめ)、皆聖教を扶(たす)く。智者、法を弘めし自り、三十餘年、獨り維摩の疏のみ有り、隋朝に煬帝の勅を奉じて、此之玄と文とを撰せり。
迺(すなわ)ち、是れ灌頂法師の私記なり。合して二十卷なり。智に非ざれば禅なら不ということ、斯言允(まこと)なる矣(かな)。其滅後一百餘載に及んで、唐の天寶中に至り、歳、戊子に在るに、東陽郡の清泰寺の朗和尚というひと有り。法門之眉壽、涼池之目足なり。乘戒倶に急にして、内外兼包せり。滿慈之寶器を獲て、空生之石室に坐す。毎に講授之次(ついで)に於いて、默然として歎じて曰く、其の義趣を觀ずれば、深く佛乘に契い、其の文勢を尋ぬれば、時に次いでなら不ること有り。或いは文は續きて義は斷え、或いは文は後にして義は前にあり、或いは長行の前に其の章を開き、或いは後に從えて直ちに其の義を述せり。或いは偈の中に先に其の數を擧げ、或いは後に其名を次せ不。
然れども聖意測り難し、但だ仰いて信ずる而已(のみ)。
今、諸の聽徒、頻りに勸請して曰わく、上根は悟り易し。頤(ふか)きを探りて、迷わ不らん。中下之流は、文を尋ねて旨を失せん。儻(も)し、更に次比を垂れば、此れ則ち弘益巨多なりというに因りて、和上、再三籌量するに、事已(や)むことを獲(え)不。乃ち念を大師に專(もっぱら)にして、可否を加せんことを求む。
夢に感ずる所に因りて、方に始めて條倫し、蓋し亦情の便宜に隨う。誠諒(まこと)に苟しくも同異を求めて、輒(たや)すく其の間に増減有るに非ず。冀(こいねが)わくば、後の諸の學者、其の元意を曉()り。領を尋ね、裳を索め、金を擔い、礫を棄てんことを。眞實の法を説くは、虚妄の人に非ず。玄風之廣く扇ぐを助け、丹丘之添削を備(つまび)らかにす。
則ち百界千如、宛ら符契に同じ。化城寶所、盡く津橋に親し、彌勒之慇懃に頼(よ)りて、文殊之靳固(きんこ)を迴らす。發智を輔(たすく)る之六足、春秋に褒する之一言、神逈等、並びに文の前に採綜して、輕く諦理を安んず。空王佛の所にして、同じく共に發心し、十六の沙彌、咸く皆代講せ不ること莫し。翳花日に逢い、瘼を除きて、珠を養なう。誠に雁門之筆に愧づ。
曷(いずく)んぞ、龍嚬之奧を窺わん。庶(こいねがわ)くば、探玄之士、道流に沐して而も本くこと有らんことを焉。
妙法蓮華經文句卷第一上
天台智者大師説
「序品第一」
仏の世に出ずること難く、仏、これを説くこと難く、これを伝訳すること難く、自ら開悟すること難く、師の講を聞くこと難く、一辺にして記すること難し。余二十七にして、金陵において聴受し、六十九にして丹丘において、添削す。留めて後賢に贈り、ともに仏慧を期す。くわしく、経題を釈すること、すでに上に説くがごとし。
「序」とは庠序と訓ず。階位、賓主、問答、ことごとく庠序なるをいうなり。経家は義にしたがう。次、由、述をいうなり。「如是」等の五事は経の首に冠むる次序なり。放光六瑞は、起発の端にして、由序なり。問答釈疑は、正説の弄引にして、叙述なり。この三義を具す。故に称して、序となす。「品」とは、「中阿含」に跋渠という。ここには、翻じて品となす。品とは、義類同じきものを聚めて、一段にあり。ゆえに品と名づくるなり。あるいは、仏みずから唱える品あり。「梵網」のごとし。あるいは、結集の置くところあり、「大論」のごとし。あるいは訳人の添足あり、羅什のごとし。今の「薬王本事」は、これ仏の自唱なり。「妙音」「観音」等は、これ経家なり。訳人いまだ聞かず。諸品のはじめにあり、ゆえに「第一」という。仏、縁に赴いて、散華、貫華の両説をなしたまえり。結集者は説を按じて、これを伝う。論者は経によりて、これを述ぶ。皆節目せず。いにしえの講師は、ただ義理を敷弘して、章段を分たず。もし、もっぱらこの意を用うれば、後生ほとんど起尽を識らざらん。また、仏は、貫と散を説けども、集者は、義にしたがって品を立つ。
「増一」にいわく『契経一分、律一分、阿毘曇一分』と。契経にさらに四を開す。いわく『増一』、『長』『中』『雑』なり。増一阿含は、人天の因果を明かし、長阿含は邪見を破し、中阿含は深義を明かし、雑阿含は禅定を明かす。律に五部および八十誦を開す。阿毘曇に六足、八けん度等を開す。阿含にいわく「施戒慧六度は、みな足なり」根、性、道、定等の八種の聚をいうなり。
天親は、論を作りて、七功徳を以って序品を分ち、五示現(ごじげん)をもって方便品を分つ。其の余の品は、各分つ処有り。
昔河西の憑、江東の瑶は、此の意を取りて経文を節目す。末代尤も煩わしく、光宅は、転た細なり。重雰太清を翳し、三光之が為に耀を収む。津を問う者の貴ばざる所なり。曇鸞云く。細科煙のごとくあがり雜礪塵のごとく飛ぶ。蓋し若しくは過ぎ、若しくは及ばざるなり。
廬山の龍師は、文を分って序、正、流通となす。二十七品統べて唯、両種なり。序より法師に至るは、言方便、言真実なり。理一にして、三を説く故なり。宝塔より下は、身方便、身真実なり。実に遠して近を唱うるが故なり。又方便より安楽行に至るは是れ因門なり。涌出より下は是れ果門なり。
齊の中興の印、小山の瑶は、龍より経を受け、文を分つこと同じ。玄暢は序より多宝に至るまでを因分となす。勧持より神力に至るまでを果分と為す。属累より経を尽くすまでを護持分と為す。
又有る師云く、序より学無学人記に至るまでは是れ法華の体なり。法師より属累に至るまでは受持の功徳を明す。薬王より経を尽くすまでは諸菩薩の本願を美すと。
有る師は四段と作す。初品を序段と為す。方便より安楽行に至るは開三顕一の段なり。涌出より分別功徳を訖るまでは開近顕遠の段なり。後去って余勢は流通の段なり。
光宅の雲は印より経を受く。初に三段、次に各二を開す。謂く通序、別序なり。正は謂く因門と果門なり。流通は謂く化他と自行なり。二序に各五あり。二正に各四あり。二流通に各三あり。合して二十四段云云。
夫れ経文の分節は悉く是れ人情なり。蘭菊各其の美を擅ままにす。後生応は是非諍競すべからず。三の益無く、一道を喪う。三益とは、世界等の三悉檀なり。一道とは、第一義悉檀なり。
天台智者は文を分って三と為す。
初品を序と為し、方便品より分別功徳の十九行の偈を訖るまで、凡て十五品半を、正と名づく。
偈より後、経を尽すまで、凡て十一品半を、流通と名づく。
又一時を分って、二と為す。
序より安楽行に至る十四品は、『迹』に約して、開権顕実す。
涌出より、経を訖るまでの、十四品は、『本』に約して開権顕実なり。
『本』と『迹』に、各、序、正、流通あり。
初品を、序と為す。
方便より、授学無学人記品の訖りまでを、正と為す。
法師より、安楽行を訖るまでを、流通と為す。
涌出より、弥勒已問斯事、仏今答之を訖るまでの半品を、序と名づく。
仏告阿逸多より下、分別功徳品の偈を訖るまでを、名づけて正と為す。
此の後、経を尽くすまでを流通と為す。
今の記は、前の三段に従って、文を消するなり。
問う。一経になんぞ二序ある。
答う。華厳は処処に衆を集め、阿含は篇篇に如是あり。
大品は前後に付属す。皆一部に乖かず。両序何の妨げあらん。
今、五義を安んぜざるは、本門は次の首に非ざるが故なり。
迹門は但単に流通するは、説法、未だ竟わらざればなり。有無の意を爾云うなり。
今、帖を文するに四となす。
一に列数、二に所以、三に引証、四に示相なり。
列数とは、一に因縁、二に約教、三に本迹、四に観心なり。
始め如是より、終り而退に于(いた)るまで、皆、四意を以って、文を消す。而るに今、略して書す。或いは三、二、一。
貴むこと、意を得るに在り。筆墨を煩わせず。
二に所以()とは、問う、若し略せば則ち一ならん。若し広せば四に匪ず。所以は云何。答う、広せば、則ち智をして退せしめ、略せば、則ち、意、周らず、我、今、処中に説きて、義をして明了にし易からしむ。
因縁とは亦は感応と名づく。衆生は、機無ければ、近しと雖ども見えず。慈善根力は遠けれども、自ら通ず。感応道交す、故に因縁の釈を用うるなり。夫れ衆生は脱を求む。此の機、衆し。聖人は応を起す。応、亦衆し。此義更に広し。処中に何か在る。然るに大経に云く「慈善根力に無量の門有れども、略せば、則ち神通なり」と。
若し十方の機、感ずれば、曠きこと虚空の若し。今、娑婆国土を論ずるに、音声の仏事、則ち甘露の門開く。教に依りて釈すれば、処中の説、明らかなり。
若し機に応じて教を設くれば、教に権実、浅深の不同有り。須らく指を置きて月を存し、迹を亡じて本を尋ぬべし。故に肇師云く、本に非ざれば、以って迹を垂るることなし。迹に非ざれば、以って本を顕わすことなしと。故に本迹の釈を用いるなり。
若し迹を尋ぬれば、迹広し。徒らに自ら疲労す。若し本を尋ぬれば、本高し。高くして極むべからず。日夜他の宝を数うるに、自ら半錢の分無し。但だ己心の高広を観すれば、無窮の聖応を扣く。機を成じ感を致し己利を逮得す。故に観心の釈を用うるなり。
三に引証す。方便品に云く、十方の諸仏は一大事の因縁の為の故に世に出現すと。
若しは、人天、小乗は一に非ず、大に非ず。又、仏事に非ず。機感を成ぜず。
実相を一と名づけ、広博を大と名づく。仏は此れを指して事と為し、世に出現したもう。是れを一大事の因縁と名づけるなり。
又云わく、種種の法門を以って、仏道を宣示す。
当に知るべし、種種の声教は、若しは微、若しは著、若しは権、若しは実なり。皆仏道の為に而かも筌弟と作す。
大経に云わく、麁言及び軟語、皆第一義に帰すと。此の謂なり。
壽量品に云く、今天人阿修羅。皆謂我少出家。出釈氏宮。去伽耶城不遠。得三菩提。然我実成仏已来。無量無邊。阿僧祇劫。以斯方便。導利衆生と。
方便品に又云く、我本立誓願。普令一切衆。亦同得此道。如我等無異。
又五百受記品に云わく、内祕菩薩行。外現是声聞。実自淨仏土。示衆有三毒。又現邪見相。我弟子如是。方便度衆生。
此れ則ち師弟は皆、本迹を明す云云。
譬喩品に云く、若人信汝所説。即為見我。亦見於汝。及比丘僧。并諸菩薩。当に知るべし、聞く所有るに隨って諦心観察すれば、信心の中に於いて三宝を見るを得。説を聞くは、是れ法宝、我を見るは是れ仏宝なり。汝等を見るは是れ僧宝なり、云云。
四に相を示すとは、且らく三段に約し、因縁の相を示す。衆生は、久遠に仏の善巧に仏道の因縁を種え令めたもうを蒙むり、中間に相値って、更に異の方便を以って、第一義を助顕し、而して之を成熟し、今日、雨花動地して、如来の滅度を以って、而も之を滅度したもう。復次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等は是なり。復次に中間を種と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す。今の開示悟入の者之なり。復次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す。未来の得度者是なり。未だ是れ本門ならずと雖ども、意を取りて説く耳。其間の節節に三世九世を作りて、種と為し、熟と為し、脱と為す。亦応に妨げ無かるべし。何を以っての故に。如来自在神通之力、師子奮迅大勢威猛之力、自在に説けばなり。
是くの如き等を以っての故に序分有るなり。衆は希有の瑞を見て、顒顒(ぎょうぎょう)として欽渇し、具足の道を聞かんと欲す。仏は機に乗じて化を設け、仏の知見に開示し悟入せしめたもう。故に正説分有るなり。但だ当時に大利益を獲るのみに非ず、後の五百歳遠く妙道に沾おわん。故に流通分有るなり。
又、教相を示せば、此の序は人天清升の為に序と作るに非ず。二乗小道の為に序と作るに非ず。即空通三の為に序と作るに不ず。独菩薩の法の為に序と作るに不ず。乃ち正直に方便を捨てて、但だ無上仏道を説くが為に序と作る耳。此の正は世間を指して正と為さず。螢光の析智を指して正と為さず。燈炬の体法智を指して正と為さず。星月の道種智を指して正と為さず。乃ち日光の一切種智を指して正と為す。此の流通は楊葉木牛木馬の為に而も流通と作るに非ず。半字を流通するに非ず。共字を流通するに非ず。別字を流通するに非ず。純ら是れ円満修多羅満字の法を流通するなり。
次に本迹を示さば、久遠に菩薩の道を行ぜし時、先仏の法華経を宣揚したまいしに、亦、三分、上中下の語有り。亦、本迹有り。但だ、仏仏相望するに是れ則ち窮り無し。別して最初成仏の時、説く所の法華の三分、上中下の語を取り、專ら名づけて上と為し、之を名づけて本と為す。何を以っての故に。最初成仏の初説法の故に、上と為し、本と為す。此の意知る可し。中間の行化は、大通智勝然燈等の仏を助けて法華の三分を宣揚するは、但だ名づけて中と為し、但だ名づけて迹と為す。何を以っての故に。前に上有るが故なり。前に本有るが故なり。今日王城に説く所の三分は、但だ名づけて下と為し、但だ名づけて迹と為す。乃至師子奮迅之力、未来永永に説く所の三分も亦、最初を指して上と為し本と為す。
譬えば、大樹の千枝万葉有りと雖ども、其の根本を論ずれば、伝伝して相指すことを得ず、同じく一根を宗とするが如し。此の喩、解す可し云云。
次に観心の相を示せば、当に己心に約して、戒定慧を論じて、三分と為すべし。修行は戒を以って初めとなし、定は中、慧は後なり。若し法門には慧を以って本と為し、定、戒を迹と為す。
又、戒定慧を各各三分と作す。前方便、白四羯磨、結竟を、戒の三分と為す。二十五方便、正観歴縁、又善入出住百千三昧等を定の三分と為す。因縁所生法、即空、即仮、即中を慧の三分と為す。
已に三分に約して、四種の相を示す。
当に此の義を用いて、如是従り去りて、作禮而退に至る已還(まで)、悉く四意を作して消文すべし。但だ此の義を準望せば、比知すること則ち易し。分別顕示は、其の辞則ち難し。行者善く之を思量せよ。語は異にして意は同じ。千車は轍を共にし、万流は鹹会する者なり。
序に通別有り。如是より去って却坐一面に至るは通序なり。爾時世尊より去って品を至るまでは、別序なり。
通序は通じて諸教なり。別序は別して一経なり。
通序を五或いは六、或いは七と為す云云。
如是とは、所聞之法体を挙ぐ。我聞とは、能持の人なり。一時とは、聞持和合にして、時の異に非ざるなり。仏とは、時に仏に従いて聞けるなり。王城耆山は、聞持の所なり。与大比丘とは、是れ聞持の伴なり。此れ皆因縁和合の次第に相生じるなり。
如是とは、所聞之法體を擧ぐ。我聞とは、能持の人なり。一時とは聞持和合にして、時の異なるに非ざるなり。佛とは、時に佛に從いて聞けるなり。王城耆山は、聞持之所なり。與大比丘とは、是れ聞持の伴なり。此れ皆因縁和合の次第に相生じるなり。
又、如是とは、三世の佛の經初に皆、如是を安ず。諸佛の道、同じく不世と諍わざるは、世界悉檀なり。大論に云わく「時方を擧げて、人をして信をぜ令む」とは、爲人悉檀なり。又外道の阿歐の二字の如ならず、是ならざるを對破するは、對治悉檀なり。又、如是とは、信順之辭なり。信ずるときは、則ち所聞之理會し、順ずるときは、則ち師資之道成ず。即ち第一義悉檀なり。因縁の釋、甚だ廣し。具さに載すること能わず云云。
教に約して釋せば、經に三世の佛の法は、初めは皆、如是と稱す。先佛に漸、頓、祕密、不定等の經有あり。漸は、又三藏、通、別、圓なり。今佛も亦爾なり。諸經同じからざれば、如是も亦異なり。應に一匙をもって衆戸を開くべからず。又、佛と阿難の二文、異ならざるを如と爲し、能詮の所詮を詮ずるを、是と爲す。今阿難は、佛の何等の文を傳え、何等の是を詮するや。漸の文を以って、頓の是を傳え、偏の文を以って、圓の是を詮す可からず。傳詮若し謬るときは則ち文は、如らず。文如らざるときは。則ち理、是ならず。此の義、明め難し。須らく意を加えて詳審すべし。
且く漸教に依りて分別せば、佛の明さく、「俗には文字有り、眞には文字無し」と。阿難は佛の俗諦の文字を傳えて佛説と異ならず。故に如と名づく。此の俗文に因りて眞諦の理に會す。故に名づけて是と爲す。此れ則ち三藏經の初めに、如是を明すなり。
佛は明さく「色に即して、是れ空、空即ち是れ色、色空なり、空色なり。二無く別無し。空色異ならざるを如と爲し。事に即して而も眞なるを是と爲す。阿難の佛の文を傳えて異ならざるを如と爲し、能詮即ち所詮なるを是と爲す。此れ則ち通教の經の初めの如是なり。
佛の明さく「生死は是れ有邊、涅槃は是れ無邊なり。生死有邊を出でて、涅槃の無邊に入り、涅槃の無邊を出でて、中道に入る。阿難は、此の有を出でて、無に入り、無を出でて、中に入ることを傳えて、佛説と異なること無きを如と爲し、淺從り深に至りて非無きを是と曰う。此れ則ち別教の經の初めの、如是なり。
佛の明さく「生死は即ち涅槃なり。亦即ち中道なり。況んや復涅槃寧ろ中道に非ざらんや。眞如法界、實性、實際、一切處に遍して、佛法に非ざることなし。阿難と此れを傳えて。佛説と異なることなし。故に名けて如と爲す。如如不動なり。故に名づけて是と爲す。是れ則ち圓の經の初めの如是なり。若し俗を動じて如に入らば、三藏の義耳。俗を動ぜずして即ち是れ如なるは、通教の義耳。如を動じて、如に入るは、別教の義耳。如を動ぜずして、而も是も如なるは、圓教の義なり云云。
若しくは、頓の如是は、圓と同じ。不定の如是は、前後更互す。祕密は、隱れて傳わらず。八教の網を敷きて、法界の海に亘すに、其の漏るること有らんことを懼る。況んや、羅之一目、若爲んが獨り張らん。又一時は、四つの箭を接して、地に墮さ令めざらんも、未だ敢えて捷しと稱せず。鈍驢に策ち、跛鼈を驅るも、尚一を得ず。何に況んや四をや云云。
本迹に約して、如是を釋せば、三世十方横竪皆爾なり。過去遠遠、現在漫漫、未來永永、皆悉く是くの如し。何れの處か是れ本、何れの處か是れ迹ならん。且く釋尊に約するに、最初成道の經の初めの如是は、是れ本なり。中間に作佛して説きたまえる經、今日説く所の經の初めの如是は、皆迹なり。又阿難の傳うる所の如是は、迹なり。佛の説きたまえる所の如是は、本なり。又、師弟の如是に通達すること始めて今日に非ず、亦、中間に非ざるは、本なり。而も中間、而も今日は、迹なり。
觀心をもって釋せば、前の悉檀教迹等の諸の如是の義は、悉く是れ因縁生の法なりと觀ずるは、即ち通觀なり。因縁即空即假なるは、別觀なり。二觀を方便道と爲し、中道第一義に入ることを得て、雙べて二諦を照すは、亦通、亦別の觀なり。上來悉く是れ中道なるは、非通非別の觀なり。下の文に云く「若し人、汝が説く所を信ぜば、即ち我を見、亦、汝及び比丘僧并びに諸の菩薩を見ることを得」と。即ち觀行の明文なり。信は則ち機を論ず。見は則ち是れ應、即ち因縁なり。又、信に淺深有り。見に權實有りて、種種に分別すること同じからざるは、即ち教を分別するなり。又、法華之文を信ずるときは、則ち實相之本を見る。若し身子之化を見るときは、則ち龍陀之本を見る。若し始成の釋尊を見たてまつるときは、亦、久成の先佛を見たてまつる。若し千二百の比丘、八萬の菩薩を見るは、亦、其の本を見るなり。又經を聞きて、心に信じて疑い無く、此の信心明淨なるを覺るは、即ち是れ佛を見たてまつるなり。慧數分明なるは、是れ身子を見るなり。諸數分明なるは、是れ衆の比丘を見るなり。慈悲心淨きは、是れ諸の菩薩を見るなり。心に約して四と爲す。帖釋するに、轉た明らかなり。
若し他經を釋せば、但だ三意を用う。未だ本を發し、迹を顯わさざるが爲の故なり。當に知るべし、今の經の三釋は他と同じく、一釋は、彼と異なり。四番に如是を釋し竟んぬ云云。
『我聞』とは、或いは聞如是という。蓋し經本同じからず、前後互いに擧ぐるのみ。今例して四釋と爲す。大論に云く。耳根壞せず、聲、可聞の處に在り。作心して聞かんと欲す。衆縁和合す。故に我聞と言う。問、應に耳聞と言うべし。那んぞ我聞と云う。答う、我は是れ耳の主。我を擧げて衆縁を攝す。此れ世界の釋なり。阿難、高きに登りて我聞と稱す。大衆、皆悲號す。適に如來を見たてまつりて今我聞と稱す。無學飛騰して偈を説く。佛話經に明さく。文殊結集するに、先に題を唱え、次に如是我聞と稱す。時衆、悲號す。此れ爲人の釋なり。阿難、高きに登りて、我聞と稱して、衆の疑いを遣る。阿難の身と佛と相い似たり。佛より短きこと三指なり。衆疑うらく、釋尊重ねて出づるか。或いは他方の佛、來たるか。或いけ阿難、成佛するか。若し我聞と唱うれば、三つの疑いを即ち遣る。此れ對治の釋なり。阿難學人。俗に隨って我聞と稱す。第一義の中には我無く聞無し。古來の衆釋は、同じく是れ因縁の一意のみ。
教に約して解釋せば、釋論に云わく、凡夫に三種の我あり。見と慢と名字を謂う。學人に二種あり。無學に一種あり。阿難は是れ學人。邪我無くして、能く慢我を伏す。世の名字に隨いて、我と稱するに咎無し。此れ三藏の意を用いて我を釋するなり。十住毘婆沙に云わく。四句に我と稱するは皆邪見に墮す。佛の正法の中には我無し、誰か聞かん。此れ通教の意を用うるなり。大經に云わく。阿難は多聞の士、我と無我、而も不二なりと知りて、雙べて我と無我を分別すと。此れ別教の意を用うるなり。又阿難は我と無我と而も不二なりと知りて、方便して侍者と爲り、如來の無礙の智慧を傳持す。自在の音聲を以って、權を傳え實を傳う。何の不可有らん。此れ圓教を用いて我を釋するなり。又正法念經に、三阿難を明す。阿難陀、此には歡喜と云う。小乘藏を持す。阿難跋陀、此には歡喜賢と云う。雜藏を受持す。阿難娑伽、此には、歡喜海と云う。佛藏を持す。阿含經に典藏阿難有り。菩薩藏を持す。蓋し一人に四徳を具するを指す。四法門を傳持す。其の義自ら顯かなり云云。
本迹をもって釋せば、若し未だ會入せざれば、阿難は世に隨って我と名く。言う可し。若し迹を發し本を顯さば、空王佛の所にして、同時に發心す。方便して示すに、傳法の人と爲る。何ぞ能わ不らん所かあらん云々。觀心をもって釋せば、因縁所生の法を觀ずるに、即空、即假、即中なり。即空とは、我は無我なり。即假とは、我を分別するなり。即中とは、眞妙の我なり云云。
『聞』を釋せば、阿難は佛の得道の夜生れたり。佛に侍すること二十餘年なり。未だ佛に侍せざる時は、應に是れ聞か不るべし。大論に云わく、阿難は集法の時、自ら云わく。佛の初轉法輪をば、我れ爾の時に見ず。是くの如く展轉して聞けりと。當に知るべし、悉く聞か不るなり。舊解に云わく、阿難は佛の覺三昧力を得て、自ら能く聞けりと。報恩經に云わく。阿難は、四の願を求む。未だ聞かざる所の經をば、願わくば佛重ねて説きたまえ。又云わく、佛口密かに爲に説けるなり。胎經に云わく、佛は金棺從り金の臂を出だし、重ねて阿難の爲に、入胎之相を現じたもうと。諸經に皆聞けり。況んや餘處の説をや。此の文に云わく、阿難、記を得て、即ち本願を憶うに、先佛の法を持す。皆今の如くなり。此れ因縁釋なり。
若し教に約すれば、歡喜阿難は、面は淨滿月の如く、眼は青蓮華の若く、親しく佛旨を承くること仰ける完器の如く、傳えて以って人を化すること異瓶を瀉ぐが如し。此れ聞聞の法を傳うるなり。歡喜賢は、學地に住して空無相の願を得たり。眼耳鼻舌の諸根は漏せず。聞不聞の法を傳持するなり。典藏の阿難は含受する所多し。大雲の雨を持するが如し。此れは不聞聞の法を傳持するなり。阿難海は、是れ多聞の士、自然に能く是の常と無常を解了す。若し如來は常に法を説きたまわ不を知るを、是れを菩薩の具足多聞と名づく。佛法の大海の水、阿難の心に流入す。此れは、不聞不聞の法を傳持するなり。今經は是れ海阿難の不聞不聞の妙法を持するなり。
本迹をもって解せば、上の四の聞の如く皆迹を引けり、而も本地は不可思議なり云云。
觀心をもって釋すれば、因縁の法を觀ずるは、是さ聞聞を觀ずるなり。空を觀ずるは是れ聞不聞を觀ずるなり。假を觀ずるは、是れ不聞の聞を觀ずるなり。中を觀ずるは、是れ不聞不聞を觀ずるなり云云。一念の觀とは、妙觀なり云云。
『一時』とは、肇師の云わく、法王運を啓く。嘉會之時とは、世界なりと。論に云わく、迦羅は是れ實時なり。内の弟子に時、食時、著衣を示すとは、爲人なり。三摩耶は是れ假時、外道の邪見を破すとは、對治なり。若し時と道と合するは、第一義なり云云と。
若し見諦已上、無學已下は、下の一時と名づけ、若し三人同じく第一義に入るは、中の一時と名づけ、若し登地已上は、上の一時と名づけ、若し初住已上は、上上の一時と名づく。今經は、是れ上上の一時なり。此れは教に約して分別するなり。
本迹とは、前の諸の一時は迹なり。久遠實得の一時は本なり。
觀心をもって釋せば、心を觀ずるに先に空、次に假、後に中なるは、次第の觀心なり。心を觀ずるに、即空即假即中なるは、圓妙の觀心なり。
『佛』とは、劫初には、病無く、劫盡には病多し。長壽の時は、樂にして、短壽の時は、苦なり。東天下は富みて而も壽し。西天下は珠寶多く、牛羊多し。北天下は我無く臣屬無し。此くの如きの時處には、佛の出ずるを感ぜず。八萬歳の時、百年の時までに、南天下には、未だ果を見ずして而も修を因す。故に佛は、其の地に出ず。離車子云わく、摩竭提國は大池の如く、佛、其の國に出ずるは大蓮華の如し。無勝の云わく。佛は衆生に於いて平等無二なり。汝等は五欲に耽荒して、佛を見不る耳。佛の汝を棄てて摩竭提に出ずるに非ずと。此は皆世界の釋なり。日、若し出で不れば池中の未生生已等の華、翳死せんこと疑い無し。佛、若し世に出でたまえば、則ち有刹利、婆羅門、居士、四天王乃至有頂あり。此は爲人に就きて釋するなり。三乘の根性は佛の出世を感ず。餘は感ずること能わず。善く有頂の種を斷じ、永く生死の流れを度る。此れは對治に就いて説くなり。佛は、法性に於いて動無く出無し。能く衆生をして動出を感見せ令む。而して如來に於いては、實に動出無し。此れは第一義に就いて説くなり。皆因縁の釋なる耳。
佛を覺者知者と名づく。道場樹下に於いて、世間、出世間の總相、別相を知覺す。世を覺するは即ち苦集、出世を覺するは即ち道滅なり。亦た、能く他を覺す。身の長、丈六、壽は八十、老比丘の像なり。菩提樹下にして三十四心正習、倶ち盡すは、即ち三藏の佛の自覺覺他なり。比丘の像を帶し、尊特の身を現じ、樹下にして一念相應して、餘殘の習を斷ずるは、即ち通佛の自覺覺他なり。單に尊特の相を現じて蓮花臺に坐して佛職を受けるは、即ち別佛の自覺覺他なり。前の三相を隱して、唯だ不可思議、如虚空の相を示すは、即ち圓佛の自覺覺他なり。故に經に云わく、或いは如來の丈六之身を見、或いは小身大身を見、或いは花臺に坐して、百千の釋迦の爲に心地の法門を説くを見、或いは身の虚空に同じく法界に遍して分別有ること無きを見たてまつると。即ち此の義なり。是れを教に約して分別すと爲すなり。
本迹をもって釋せば、一佛を本と爲し、三佛を迹と爲す。中間に示現して數數生を唱え、數數滅を唱うるは皆是れ迹なり。唯だ本地の四佛は皆是れ本なり。
觀心をもって釋せば、因縁所生の法(心)を觀ずるに、先に空、次ち假、後に中なるは、皆偏覺なり。心を觀ずるに、即空、即假、即中なるは、是れ圓覺なり云云。
『住』とは、能住は所住に住す。所住は即ち是れ忍土の王城なり。能住は即ち是れ四威儀にして、世に住して、未だ滅せず。此れ則ち世界の因縁をもって住を釋するなり。又『住』とは、十善道に住し、四禪の中に住す。此れ即ち爲人の因縁をもって、住を釋するなり。又『住』とは、三三昧に住するとは、對治の因縁をもって住を釋するなり。又、住とは、首楞嚴に住するなり。即ち是れ第一義の因縁をもって、住を釋するなり云云。
教に約せば、三藏の佛は、析門より眞の無漏を發して、有餘無餘の涅槃に住す。通佛は體門より眞を發して、有餘無餘の涅槃に住す。別佛は次第門より入りて、祕密藏に住し、圓佛は不次第の門より入りて、祕密藏に住す。前の三佛の住は能所皆麁にして、後の一佛の住は能所倶に妙なり。今經は則ち是れ圓佛の妙住に住するなり。
本迹の解とは、三藏の佛は應に涅槃すべし。慈悲をもって迹を垂れ、生身にして世に住す。通佛は誓願慈悲をもって、餘習を扶けて、衆生を度し佛事を作す。別圓の佛は、皆慈悲をもって法性を薫じて、衆生を愍れむが故に應を法界に垂れたもう。當に知るべし、四佛は本佛の住に住し、慈悲を以っての故に忍土の王城に住したもう。威儀の世に住する、是れを迹住と名づく。
觀の解は、觀は境に住し、或は、無常の境、即空、即假、即中等の境に住す。無住の法を以って境中に住するが故に名づけて住と爲す。
『王舍城』とは、天竺には、羅閲祇伽羅(らえつぎから)と稱す。羅閲祇は、此に王舍と云い、伽羅は此に城と云う。國を摩伽陀と名づけ、此には不害と云う。刑殺の法無ければなり。亦は摩竭提と云い、此には天羅と云う。天羅とは王名なり。王を以って國に名づく。此の王は即ち駁足之父なり。昔久遠の劫に、此の王、千の小國に主たり。王は、山を巡りて、★師子に値う。衆人迸散す。仍って王と共に交わる。後、月滿ちて殿上に來りて生む。王是れ己が子なるを知り、訛りて言わく「我れ既に兒無し。此れ乃ち天の賜なり。養いて太子と爲さん」と。足の上に斑駁あり、時の人號んで駁足と爲す。後に王位を紹ぐに喜んで肉を食らい、廚人に勅して肉をして少しから令むることなし。一時、遽に闕く。乃ち城西の新死小兒を取りて膳と爲す。王の言わく「大だ美なり」と。之に勅して常に此の肉を辧ぜしむ。廚人、日に一人を捕う。國を擧げて愁恐す。千の小國、兵を興し、王を廢して、耆闍山中に置けり。諸の羅刹、之を輔けて鬼王と爲す。因って山神と誓って、千の王を取りて、山を祭らんと誓う。九百九十九を捕え得て、唯だ普明王を少く。後時に伺い執りて、之を得たり。大いに啼哭して恨む。生來、實語にして、而して今信に乖く。駁足之を放ちて、國に還らしむ。大施を作して、太子を立て、仍って死に就くに、形悦にして心安し。駁足之を問う。答うるに聖法を聞くを得たるをもってす。因って之を説かしむるに、廣く慈心を讚して、殺害を毀呰す。仍って四の非常の偈を説く云云。駁足、法を聞きて、空平等地を得たり。即ち初地なり。千王、各、一たいの血、三條の髮を取りて、山神の願に賽す。駁足は、千王と共に舍城を立て、五山の中に都して、大國と爲す。各、千の小國を以って、子胤に付す。千王、更迭に大國の事を知る。又、百姓、五山の内に在りて、七遍舍を作るに、七度燒かる。百姓議して云わく「我薄福に由りて數、わい燼を致す。王は、福力有りて其舍燒けず。今より已後は、皆我屋を排して王舍と爲さん」と。是に由りて、燒を免る。故に王舍城と稱す。又、駁足、千王と共に、舍を其の地に立つ。故に王舍と稱す。又、駁足、道を得て、千王を放赦す。千王、赦を其地に被る、故に地を名けて王赦と爲す。而して經家は音を借りて屋舍の字と爲す耳。因縁は『大論』及び諸經に出ず云云。
教に約せば、像法決疑經に云わく、「一切大衆の所見、同じからず。或いは、娑羅林の地、悉く是れ土砂、草木、石壁なりと見、或いは、七寶清淨の莊嚴なりと見、或いは、此の林は、是れ三世諸佛の遊行したもう所の處と見、或いは、此の林は、即ち是れ不可思議諸佛の境界、眞實の法體なりと見る」と。例して此の義を知る、四見同じからず。所住既に然れば、能住亦た爾なり。此れ則ち教に約して分別するなり。
本迹と觀心は、後に在りて説かん。
『耆闍崛山』とは、此に靈鷲と翻ず。亦た鷲頭と云い、亦た狼跡と云う。梁武の云わく「王雎」と。「詩人の詠ずる所の關雎、是なり」と引くなり。爾雅に云わく「鵄に似たり」と。又、解すらく「山の峰、鷲に似たり。峰を將って山に名づく」と。又云わく「山の南に尸陀林有り。鷲の尸を食らい竟りて、其の山に棲む。時人呼んで、鷲山と爲す」と。又解すらく「前佛、今佛、皆此山に居す。若し佛の滅後には羅漢住し、法滅には支佛住し、支佛無ければ鬼神住す。既に是れ聖靈の居する所に、總じて三事有り。因って呼んで靈鷲山と爲す」と。五精舍あり、ひっ婆羅跋恕、此には天主穴と云う。薩多般那求訶、此には七葉穴と云う。因陀世羅求訶、此には蛇神山と云う。薩簸恕魂直迦鉢婆羅、此には少獨力山と云う。五つには、是の耆闍崛山なり。問う「劫火洞然として、天地廓清なり。云何が前佛、後佛、同じく此の山に居したもうや。答う「後の劫を立つるに、本の相、還りて現ず。神通を得る人、昔の名を知って以って今に名づくるのみ。例せば、先劫に瞿曇を姓とし、本姓を將って以って今に姓とするが如し。
教に約して『山』を釋せば、例するに『城』の義に説くが如し、云云。
觀をもって釋せば、王は即ち心王、舍は即ち五陰なり。心王は此の舍を造る。若し五陰の舍を析して空ずるに、空を涅槃の城と爲す。此の觀、既に淺し、土木を見るが如し。若し五陰の舍を體して、即ち空ずるに、空を涅槃城と爲すは、即ち通教なり。若し五陰の舍を觀じ。是の色を滅するに因りて、常色を獲得し、受、想、行、識も、亦復、是くの如きなるは、此之四徳、常に諸佛之遊びたまえる所の處と爲る。若し五陰を觀ずるに、即ち法性なり、法性即ち受想行識、一切衆生即ち是れ涅槃、復、滅す可からず。畢竟空寂の舍なるは、是くの如きの涅槃は、即ち是れ眞如の實體なり云云。
觀心の山は、若し色陰を觀ずれば、知無きこと山の如し。識陰は、靈の如く三陰は鷲の如し。此の靈鷲を無常と觀ずるは、即ち析觀なり。此の靈鷲を即空と觀ずるは、體觀なり。『靈』を觀ずるに即ち智性なるは、了因智慧莊嚴なり。『鷲』は即ち聚集なるは、縁因福徳莊嚴なり。『山』は即ち法性なるは、正因不動なり。三法を祕密藏と名づく。自ら其の中に住して、亦た用いて人を度す。
下の文に云わく「佛は自ら大乘に住したもう」と。即ち別圓の二觀なり云云。
『中』とは、佛は中道を好みたもう。中天に升り、中日に中國に降り、中夜に滅したもう。皆、中道を表す。今、山中に處して、中道を説きたもうなり。
同聞の衆を釋するに、三と爲す。初めに聲聞、次に菩薩、後に雜衆なり。諸經多く爾り。
舊に云わく「事有り、義有り。事とは、形迹の親疎に逐うなり。聲聞は、形は俗網を出で、迹は如來に近し。經を證して親と爲す、故に前に列ぬるなり。天人は、形は乖き、服は異なり、迹は侍奉に非ず。經を證して疎と爲す、故に後に列するなり。菩薩は形は檢節せず、迹は定まる處なし。既に俗に同じからず、復、僧に異なり。季孟之間に處す、故に中に居するの仲なり。義有りとは、聲聞は涅槃を欣び、天人は生死に著し、各、偏する所有り。菩薩は欣ばず、著せず。中に居し、宗を求む、故に兩間に在り」と。釋論の意も亦た爾り。此の一解は兩釋に似。事の解は、因縁に似たり。義の解は約教に似たり、云云。
本迹の解とは、聲聞は内祕、外現なり。何ぞ嘗って涅槃を保證せん。天人は皆大薩たなり。豈に復た生死に耽染せんや。皆、是れ迹に二邊を引きて、而も本は常に中道なり。
觀心をもって釋せば、從假入空觀とは、即ち偏に生死を破し、從空入假觀は、即ち偏に涅槃を破す、中道正觀は、復た前後無し云云。
聲聞を列するに二と爲す。先に比丘、次に比丘尼なり。比丘に又二あり。先に多知識のものを列ね、次に少知識のものを列ぬ。舊は呼んで、大名聞、小名聞と爲す。然りと雖ども據無し。今は文に依って判ずること此くの如し。多知識の衆に就きて六と爲す。一には類、二には數、三には位、四には歎、五には列名、六には結なり。
一に類とは、皆、是れ大比丘の氣類なり。群方の貴賤、各、班輩有るに譬う。今、諸の比丘は皆衆の知識する所の高譽大徳なり。
『釋論』に明さく「與とは、共の義なり」と。七一を擧げて、共を解す。謂わく、一時、一處、一戒、一心、一見、一道、一解脱なり。
若し教に歴れば、應に各七一を明すべし。三藏は一の七一、通教は二の七一、別教は無量の七一、圓教は一の七一なり。
若し未だ迹を發せざれば、正に是れ三藏、通教中の七一なり。
直ちに兩意を明す。幾か異なる。時、處、戒、解脱は是れ同なり。心、見、道の三種は則ち異なり。若し開三顯一に至れば、即ち圓教の七一に入ることを得るなり。法華論に四種の聲聞あり。今、住果の者を開いて、兩つと爲す。析法の住果は是れ三藏の聲聞、體法の住果は是れ通教の聲聞なり。應化の者を開いて兩つと爲す。登地應化は別教の聲聞、登住應化は圓教の聲聞なり。佛道の聲聞を開して、亦た兩つと爲す。他を令て次第に佛道を聞かしむるは、是れ別教の聲聞、他を令て、不次第に佛道を聞かしむるは、即ち圓教の聲聞なり。聲聞の義は浩然なる、云何ぞ涅槃を證する者を以って、之を判ずる云云。
『大』とは、釋論に明す。大とは、亦た多と言い、亦た勝と言う。器量尊重にして、天王等の大人の爲に敬せらるる所なるが故に大と言う。九十五種の外道に升出するが故に勝と言う。遍ねく内外の經書を知るが故に多と言う。又、數、一萬二千に至るが故に多と言う。今明すは、大道有るが故に、大用有るが故に、大知有るが故に、故に『大』と言う。勝とは、道勝れ、用勝れ、知勝るる故に、勝と言う。多とは、道多く、用多く知多きが故に多と言う。道は即ち性念處にして、一切智外道より大なり。用は即ち共念處にして、神通外道に勝る。知は即ち縁念處にして、四韋陀外道より多し。
教に約して大、多、勝を釋せば、大人に敬せらるる所等とは、是れ三藏中の釋のみ。大とは、大力の羅漢に敬せらるる所なり。多とは、遍ねく生滅即ち無生滅の法と知るなり。勝とは、三藏の四門に勝るるなり。此れ通教の釋なり。又、大とは、體法の大力羅漢に敬せらるる所なり。多とは、恒沙の佛法を皆知るなり。勝とは、二乘の人に勝るるなり。此れ別教の釋なり。又、大とは、諸大菩薩に敬せらるる所なり。多とは、法界不可量法を悉く知るなり。勝とは、諸菩薩に勝るるなり。此れ圓教の釋なり。
本迹とは、此の諸の大徳は久しく諸佛之咨嗟する所と爲り、本勝幢三昧を得て、諸外道に超え、先に已に種智の遍知を成就す。迹來して佛き行化を輔け、愛見の中の大、多、勝と作ることを示す。乳を引きて酪に入らんと欲し、又、三藏中の大、多、勝と作れり。酪を引きて生蘇に入らんと欲して、方等の中の大、多、勝を示し、生蘇を引きて熟蘇に入らんと欲して、轉教して般若の中に大、多、勝と作らんことを示し、熟蘇を引きて、醍醐に入らんと欲するが故に法華の中の大、多、勝と作れるなり。然るに、其の本地の大、多、勝は、久し矣云云。
觀心とは、空觀を大と爲し、假觀を多と爲し、中觀を勝と爲す。又、直ちに中觀に就くに、心性廣博なること猶、虚空の若し、故に大と名づく。雙遮の二邊は寂滅海に入るが故に、勝と名づく。雙べて二諦を照して、含容する所多く、一心は一切心なるが故に多と名づくるなり。
『比丘』とは、肇師の云わく、「秦には、淨命乞食、破煩惱、能持戒、怖魔等と言う。天竺の一名は此四義を含む。秦には以って翻ずるもの無きが故に本稱を存す」と。什師の云わく「始め妻子の家を出で、應に乞食を以って自らを資け、清淨活命なれば、終に三界の家を出づべし。必ず須らく煩惱を破し、戒を持ちて、自ら守るべし。此の二義を具すれば、天魔は其の境を出でんことを怖るるなり。
釋論に云わく、「怖魔、破惡、乞士」と。魔は生死を樂う。其れ既に出家して、復餘人を化し、倶に三界を離れしめて、魔の意に乖く。魔は力を用いて制するに、翻って、五繋を被り、但だ愁懼するのみ。故に怖魔と名づく。出家の人は、必ず身口の七惡を破す、故に破惡と言う。夫れ在家には三種の如法あり、一には田、二には商、三には仕なり、用いて身命を養なう。出家の人には佛は此を許さず、唯だ乞うて自ら濟うに、身安く、道存し、檀越を福利す。三義相成ず、即ち比丘の義なり。涅槃寶梁に、皆破惡を擧ぐ。比丘に名づくるは、具さに説かざるなり。
今此の三義を明すに、應に初後に通ずべし。初めて出家する時の如き白四羯磨するに、無作の戒力一切の境に遍して、無作の惡を翻ず。初めて禪定を修するに、定共戒を發し、意地を防伏して、貪瞋起らず、初めて觀慧を修するに、相似の道共戒を發し、能く煩惱を伏す。初心も亦た破惡と稱す。何ぞ獨り後心のみならん耶。怖魔とは、初めて髮を剃り、戒を禀くるに、已に魔をして愁えしむ。定を修して、煩惱を伏せんと欲し、慧を修して、煩惱を破せんと欲す。初心も亦、魔をして怖れしむ。何ぞ獨り後心のみならん耶。乞士とは、初めて邪命を離れて、乞を以って自ら活き、禪を修するには境を歴て、定を求め、慧を修するには、理を縁じて無漏を求む。皆是れ乞士なり。何に況んや、相應して而も乞士に非ざらんや。此の義を具足するが故に、通じて比丘と名づく。經家に依れば、皆、後心の比丘を歎ずる耳。此れ皆、三藏の意なり。若し縁を歴て、眞を求むるを乞士と名づく。障理之惑を破するを破惡を名づく。此の行を修して、四魔を怖れしむるは、即ち通教の義なり。若し三諦を歴て、理を求むるを、乞士と名づけ、通別の惑を除くを、破惡と名づけ、八魔十魔を怖れしむるは、即ち別の義なり若し生死に即して、實相の味を求むるを乞士と名づけ、煩惱即菩提と達するを、破惡と名づけ、魔界即ち佛界なるは、是れ圓教の義なり。若し未だ迹を發せざれば、但だ前の二義を明す。若し本を顯わし已れば、後の意を具するなり。
本迹とは、本に、涅槃の山頂に登り、無明癡愛の父母、結業の妻子と別れ、分段變易の家を出でて、久しくして五住を除く。何の惡か破せざらん。眞の法喜を獲ること、乳糜を食して更に所須無きが如し。中道道共の尸波羅蜜、攝衆生の戒度を持り、魔界降伏して即ち佛界なること、乘御に堪任うるが如し。本地の功徳久しく成就し已って、衆生を調えんが爲なり。迹に五味の比丘を示して、衆生を傳引すること、例して前の釋の如し。
觀心とは、一念の心を觀ずるに、淨きこと虚空の若く、二邊の桎梏の爲に礙せられず。平等大慧にして、住無く、著無く、即ち出家と名づく。中觀を以って、自ら資け、法身の慧命を活するを、名けて乞士と爲す。五住の煩惱は即ち是れ菩提なりと觀ずる、是を破惡と名づく。一切の諸邊顛倒も、中道に非ざること無し、即ち是れ怖魔なり云云。
『衆』とは、天竺には僧伽と云う、此には和合衆と翻ず。一人を和合と名づけず、四人已上を乃ち和合と名づく。事和して、別衆無く、法和して、別理無し。佛は常に千二百五十人與倶なり。三迦葉に千人、身子、目連に二百五十なり。又云わく、耶舍に五十と。『雜阿含』の四十五に云わく、「五百の比丘の中に、九十人は三明、九十人は倶解脱、餘は、但だ慧解脱なり」と。『釋論』に四種の僧を明す。淨命に依らざるを、破戒僧と名づけ、法律を解せざるを、愚癡僧と名づけ、五方便を慙愧僧と名づけ、苦法忍より去を眞實僧と名づく。此の中は三種に非ず、但だ是眞實僧なり。
若し四教に依れば、此の僧は、偏圓五味の座を歴て、同聞の人と作れり。今、正に是れ圓教の中の證信なり。
本迹をもって釋すれば、本は、實相の理と和し、又、法界衆生の機縁と和す、而して迹に半字事理之僧と爲り、五味の中に歴て、諸き衆生を引く云云。
觀の解とは、初めて中觀を學して、相似の觀に入れども、既に未だ眞を發せず、第一義天に慙じ、諸の聖人に愧づ。即ち是れ有羞僧なり。觀慧若し發すれば、即ち眞實僧なり。若し此れに異なる者の、即ち前の兩僧、觀行に依らざるを破戒僧と名づけ、觀の相を解せざるを、愚癡僧と名づく。
類を擧ぐるの義竟んぬ。
二に數を明すとは、即ち是れ一萬二千人なり。
本迹とは、本は是れ一萬二千の菩薩、迹に萬二千の聲聞と爲るなり。
觀とは、十二入を觀ずるに、一入に十法界を具す。一界に又十界あり。界界に各十如是あり。即ち是れ一千なり。一入既に一千なれば、十二入は即ち是れ萬二千の法門なり。
三に位を明せば、皆是れ阿羅漢なり。『阿ばつ經』に云わく「應眞」と。『瑞應』に云わく「眞人」と。悉く是れ無生をもって羅漢を釋するなり。舊翻に依るに、無著、不生、應供と云い、或いは、翻無しと言う。名に三義を含む。無明の糠、脱して後世の田中に生死の果報を受けざる故に、不生と云い、九十八使の煩惱を盡くすが故に殺賊と名づけ、智斷の功徳を具して、人天の福田と爲るに堪うるが故に、應供と言う。此の三義を含みて、阿羅漢を釋するなり。或いは言わく「初に始めて無生を學するに、生、未だ無生ならず。初に魔を怖るると雖ども、魔、未だ大いに怖れず。初めに乞士なりと雖ども、未だ是れ灼然として供に應ぜず。今は無生忍を獲て、煩惱の賊を破し盡す、是れ好良田なり。果を以って因に對して羅漢の三義を釋す。若し成就を論ぜば、應に果の三義を取るべく、若し初めに通ぜば、亦た因の三義を取るべし。
此くの如く釋するは、皆、三藏、通の中の意なる耳。若し別、圓は、義は則ち然らず。但だ賊を殺すのみに非ず、亦た不賊を殺す。不賊とは、涅槃是なり。是れも亦た、須らく破すべく、故に是れ殺賊の義なり。生を生せず、亦た不生を生ぜず、無漏は是れ不生なり。但だ供に應ずるのみに非ず、亦た是れ應に供す。一切衆生は是れ供應なり。皆、初地、初住の徳を歎ずるなり。
本迹とは、本に不受三昧を得て、二邊において著する所なきが故に、不生と名づけ、五住の惑を斷ずる故に、殺賊と名づけ、能く九道を福し、衆生を饒益するが故に應供有るは本の義なり。方便して衆生を度し、五味を歴て、傳傳して不生と作るは迹なり。又、本は是れ法身、迹に己利を示す。本は是れ般若、迹に不生を示す。本は是れ解脱、迹に殺賊を示す云云。
觀心とは、空觀は、是れ般若、假觀は是れ解脱、中觀は是れ法身なり。又、觀心とは、從假入空觀も亦た三義有り。乃至中道觀に無明の賊を殺し、二乘の心を生ぜず、此人を供養すること、世尊を供養したてまつるが如し。『方等』に云わく「佛及び文殊に供するは、方等を行ずる者に施して、一食にして、躯に充つるに如かず」と。下の文に云わく「佛を毀讚するは、罪福輕し、持經の者を毀讚するは、罪福重し。何となれば、佛には食想無く、久しく八風を離るれば、損益を爲さず。持經の者に施さば、肉身を全うし、報命を續け、法身を生かし、慧命を増す。故に益有り。之を毀れば、憂惱退悔す。若し好時を失すれば、則ち救う可から不。故に大いに損す云云。
四に歎徳の文に五句有り。上の三徳を歎ず。法華論に云わく「初めの句は總、後の句は別なり。當に知るべし、諸句は皆、羅漢の句を歎ずる耳なることを。「諸漏已盡。無復煩惱」此の兩句は上の殺賊を歎ず。『漏』とは、三漏なり。成論に云わく「道を失すくが故に漏と名づく」律に云わく「癡人は業を造りて、諸の漏門を開く。毘曇に云わく「生死に漏落す」と。論、律の語は異なれども、而も同じく漏の義を明す。良に賊誑に由って、理寶を失い、貧窮にして孤露なり。諸の惡業を造りて、生死の苦を致し、法身を亡じて、慧命を失し、重寶を喪う。皆、是れ賊の義なり。應に是れ不生の義をもって、徳を歎ずると謂うべから不。煩惱とは、即ち九十八使なり。流扼纒蓋等をもって、行人を逼惱す。煩惱は是れ能潤、漏業は是れ所潤なり。能所既に盡く、正に是れ殺賊の義なり。那んぞ不生の歎を作すことを得んや。『逮得己利』の一句は、是れ應供を歎ずるなり。三界の因果を皆、名づけて他と爲し、智斷功徳を皆、己利と名づく。己利具足す。故に應供を成ず。『盡諸有結。心得自在』の兩句は、是れ不生を歎ずるなり。『諸有』とは即ち二十五有の生處なり。『結』は即ち二十五有の生因なり。因盡き、果亡ず。不生を歎ずること明らかなり。應に殺賊の歎を作すべからざるなり。羅漢は、但だ應に結を盡すべく、未だ應に盡有るべからず。有盡とは、因中に果を説くなり。又、盡くること久しからざるに在るなり。『心得自在』とは、定の具足するを心自在と名づけ、慧の具足するを慧自在と名づく。慧自在は未だ必ずしも心自在ならず。心自在なれば、必ず慧自在なり。今、『心自在』と言うは、即ち是れ定慧具足、倶解脱の人なり。倶解脱の人の生は、決定して盡く。驗らかに知んぬ、不生の徳を歎ずるなることを。若し『法華論』に依らば、呼んで上上起門と爲す。則ち是れ後を以って前を釋するなり。論に云わく「諸漏盡くるを以っての故に、羅漢と名づけ、心に自在を得るを以っての故に、有結盡くと名づく。是くの如く傳傳して、上を釋するなり。
本迹とは、不生不生なるを、大涅槃と名づけ、煩惱漏流の其の源の久しく竭して、復二乘及び凡夫地に墮落せざるは、即ち本の不生なり。法身の智斷、實相の功徳を本の己利と名づけ、王三昧を得て、二十五有を破し、我性を顯出し、八自在の我を具するを、本の殺賊と名づく。迹に二乘の功徳を示す耳。
觀心は、中道の正觀なり。空假の二邊に漏落せ不れば、二邊の煩惱滅するなり。能く心性を觀ずるを、名づけて、上定と爲し、衣珠祕藏是れ己之物なるは、即ち己利なり。正しく中道を觀ずるに、結賊則ち斷ず。結無きが故に有も亦た斷ず。二邊、心を縛すること能わ不るが故に、自在と名づく。煩惱有りと雖ども、煩惱無きが如く、煩惱を斷ぜ不して、而も涅槃に入る。即ち其の義なり。
五に名を列ぬるに、略して二十一尊者を擧ぐ。佛の諸の弟子は、皆衆行を備う。而して其の圓能を隱して、各、一徳に從いて、名を標ずるは、偏好を引かんと欲するが故なり。『増一阿含』に云わく「きょう陳如比丘は、皆、上座の名ある者の有徳の大人と共に相い隨い、舍利弗は、智慧深利の者と共に相い隨い、目連は、神通大力の者と共に相い隨う」と。皆、一法を掌さどるは、諸の偏好を引く意なり。若し名を消せんと欲すれば、須らく其の行を識るべく、徳に從いて、號を立つるに、往きて通ぜ不ること無き也。一一の羅漢に例して、四釋を作さん云云。
『陳如』は姓也。此には、火器と翻ず。婆羅門の種なり。其の先は、火に事う。此に從いて、族に命けたり。火に二義有り。照也。燒也。照は則ち闇を生ぜ不。燒は則ち物を生ぜ不。此は不生を以って、姓と爲す。阿若とは、名也。此には已知と翻ず。或いは無知と言う。無知とは、所知無きに非ざる也。乃ち是れ無を知る耳。
若し二諦に依らば、即ち是れ眞を知ま。無生の智を以って、名と爲す也。『無量壽』『文殊問』『阿毘曇』『婆沙』皆稱して了本際、知本際と爲す。若し四諦に依らば、即ち是れ滅を知るなり。而して諸經に多く名づけて無知と爲し、或いは翻じて、得道と爲す。
増一阿含に云わく「我が佛法の中に、寛仁博識にして、初めて法味を受くる者は、拘隣如比丘第一なり」と。故に阿若を以って名と爲す也。『願』とは、佛、昔、饑世に於いて、化して赤目の大魚と爲り、氣を閉じて、喘が不。爲に死の相を示したもう。木工五人、先に斧をもって、魚肉を斫る。佛、時に誓って言わく「當來世に於いて、先に此等を度せん」と。先の願をもって其の無生に與う、故に阿若と云う。又、迦葉佛の時、九人、道を學するに、五人、未だ果を得ず。釋迦の法の中に於いて、最も先に開悟せんと誓う。本願の牽く所、前に無生を得る、故に阿若と名づく。行とは、智生じ、惑滅する智斷の行也。夫れ巨夜に長く寢て、人の能く覺むるもの無く、日光未だ出でざるに、明星前に現ず。陳如比丘は、初めに無生智を得る。譬えば、明星の衆明之始めに在くが若し。一切人の智明の陳如に前だつもの無し。故に阿若と名づく。最も先に闇を破するは、明星に過ぐる莫く、陳如も亦、爾なり。一切人の闇を滅するに、陳如に前だつもの無し。故に阿若と名づく。
前とは、太子、國を棄て、王を捐てて、山に入りて、道を學す。父王、思念して五人を遣わして、追侍せしむ。所謂、拘隣、あっぴと、亦た濕びと云う。亦は阿説示、亦は馬星と跋提、亦は摩訶男と十力迦葉と拘利太子なり。二りは是れ母の親、三は是れ父の親なり。二人は欲を以って淨と爲し、三人は苦行を以って淨と爲す。太子の苦行を勤行するに、二人は便ち之を捨てて去り、三人は猶、侍す。太子の苦行を捨てて還って飮食、蘇油、煖水を受くるに、三人、又捨て去る。
太子は、道を得て、先に五人の爲に四諦を説く。初めに二人に教うるに、拘隣は法眼淨なれども、四人は未だ得ず。三人乞食して、六人共に食らう。次に三人に教うるに、三人は法眼淨、二人は乞食して、六人共に食らう。第三説法の時、拘隣五人、八萬諸天は遠塵離垢し、五人は無生を得たり。
佛、三たび問いたもう。「法を知るや未しや」と。即ち三たび答えて云わく「已に知る」と。地神唱え、空神傳えて、乃至、梵世、咸く已に知ると稱す。拘隣は最も前なり。初めに佛の道相を見たてまつり、初めに法鼓を聞き、初めに道香を服し、初めに甘露を嘗め、初めに法流に入り、初めに眞諦に登る。閻浮提の得道の最も一切人、一切天、一切羅漢の前に在り。故に『十二遊經』に云わく「佛は成道の第一年に五人を度し、第二年に三迦葉を度し、第五年に身子、目連を度したもう」と。當に知るべし、阿若は前に在ること明けし矣。此れは因縁をもって釋する也。
三藏教は、盲は無生の智に譬え、鏡は無生の境に譬うる陰、入、界也。頭等の六分は、現在の因に譬うるなり。像は未來の果を譬うるなり。若し眼を開きて、鏡を取れば、形對して像生ず。愚の故に斷絶せ不。若し眼を閉づれば、盲の如く則ち見る所無し。六分を見不るは、是れ因の不生、鏡像を見不るは、是れ果の不生なり。故に阿含經に云わく「若し色有りて、色是れ淨なりと謂わば、淨は即ち生なり。不生に非ず。若し受想行識有りて、識是れ淨なりと謂わば、淨、即ち生なり。不生に非ず。若し受有りて受是れ樂なりと謂わば、樂即ち生なり。不生に非ず。乃至、色ありて、色是樂ならば、樂は是れ生なり。不生に非ず。若し想、行有りて、行是れ我なりと計すれば、我は是れ生なり。不生に非ず。乃至、色ありて色是れ我なれば、我は是れ生なり。不生に非ず。若し識有りて識、是れ常なりと計すれば、常、是れ生なり。不生に非ず。乃至、色ありて、色、是れ常ならば、常、是れ生なり。不生に非ず。譬えば、鏡を執りて面を見るに、面、是れ生にして、不生に非ざるが如し。若し五陰有りと謂わば、悉く是れ生なり。不生に非ず。若し能く、色は淨に非ず、乃至、識は常に非ずと知り、又、能く色は、無常、苦、空、不淨なり、乃至、識は無常、苦、無我、不淨と知るは、是れ不生にして、是れ生に非ずと爲す。盲の鏡を執りて、像の生ずるを見不るが如し。是れを不生にして、是れ生に非ずと爲す。
既に不生を知る。寧んぞ復た、中に於いて、我は是れ色なりと計し、我は色に異なり、我は色の中に在り、色は我の中に在り、乃至、識も亦た是くの如しと計せんや。是くの如く觀ずるは、現の因、來の果なり。倶に皆、生なら不。盲の鏡に對して形像を見不るが如し。是れを陰を觀ずる無生の觀智と名づくる也。
入、界を觀ぜば、凡そ海と言うは、復た深廣なりと雖も、亦た、此彼の岸有り。蓋し、小水耳のみ。若し眼に色を見已りて、愛念し、染著し、貪樂して、身口意の業を起すは、是れを大海と爲す。一切世間の天人修羅を沈沒す。當に知るべし、眼は是れ大海、色は是れ濤波なり。此の色を愛する故に、是れえふくす。中に於いて、不善の覺を起すは、是れ惡の魚龍なり。妬害を起すは、是れ男の羅刹なり。染愛を起すは、是れ女の鬼なり。身口意を起すは、是れ鹹水を飮みて、自ら沒するなり。是れ眼色において、知ること無くして、而も、無明の愛を生ずと爲す。愛生ずるが故に、名づけて行と爲し、行生ずるが故に、名づけて業と爲す。業の識を縛して、中陰に入るを、是れを識生ずと爲し、受くる所の胞胎、五疱未だ成らざるを、是れを名色生ずと爲す。五疱成じ已るを、六入生ずと名づく。六入の未だ能く苦樂を別たざるを、名づけて觸生ずと爲し、苦樂を別つを、受生ずと名づく。塵に於いて染を起すを、愛生ずと名づけ、四方に馳求するを、取生ずと名づけ、身、口、意を造るを、有生ずと名づく。應に未來の五陰を受くべきを、生生ずと名づけ、未來の陰變ずるを老生ずと名づけ、未來の陰壞するを死生ずと名づく。心中内に熱するを、憂生ずと名づけ、聲を發して大いに喚ぶを、悲生ずと名づけ、身心しょう悸するを、苦惱生ずと名づく。是れを眼に色を見る時、即ち三世十二因縁の大苦聚有りて生じ、不生に非ずと名づく。耳、鼻、舌、身、意、眼界、乃至、法界も亦た是くの如し。是れを入界生じ、不生に非ずと爲す。云何が不生なる、眼に色を觀る時、苦の種を種え不、苦の芽を生ぜ不、臭汁を漏らさ不、蛆蠅を集め不、若し種を生ぜ不れば、則ち芽生ぜ不、則ち臭汁生ぜ不れば、則ち蛆蠅生ぜ不。故に不生と名づく。云何が苦の種なる。眼に色を見る時、貪恚の覺を起すを、是れ苦種と爲す。五欲の法を念ずるは是れ苦の芽を生ずるなり。六根の六塵を取るを、是れを臭汁流出と名づく。六塵の中に於いて、善惡競い起るを、是れを蛆蠅と名づく。若し眼色の無常、苦、空、無我を知れば、則ち貪恚生ぜ不、念欲生ぜ不、取境生ぜ不、善惡の行生ぜ不らん。是れを不生と爲す。耳、鼻、舌、身、意も亦た是くの如し。是の眼界乃至法界も亦た是くの如し。阿若は最初に此の三藏不生の智を得たるが故に、阿若陳如と名づく。
通教の無生の觀は、譬えば、幻人の幻鏡を執り、幻の六分を以って幻鏡に臨み、幻像を覩るが如し。像は鏡より生ずるに非ず、面より生ずるに非ず、鏡面の合生に非ず、鏡面を離れて生ずるに非ず。既に四句從り生ぜ不るときは、則ち内、外、中間に非ず。常に自ら有ら不。亦た滅する處無く、去りて東西南北の方に至ら不。性本より生無く、生滅して生無きに非ず。性本より滅無く、滅滅して滅無きに非ず、無生無滅なきが故に、無生と曰う。受、想、行、識も亦復、是くの如し。又、幻色を觀ずるに、幻の鏡像の如く、受を觀ずるに、泡の如く、想を觀ずるに、炎の如く、行を觀ずるに、芭蕉の如く、識を觀ずるに、幻の如し。幻は幻物從り生ぜ不、幻師從り生ぜ不、物師合して生ずるに非ず、物師を離れて生ずるに非ず。四句に幻の生を求むるに、生の從來するところ無し。四方に幻の滅を求むるに、滅の去處無し。性本より生無く、生滅して生無きに非ず、性本より滅無く、滅滅して滅無きに非ず。生無く滅無きが故に、無生と曰う。根塵の村落を觀ずるに、結賊の止まる所、本從り已來一一實なら不。妄想の故に起る業力の機關を假りに空聚と爲す。無明の體性は、本自ら有なら不。妄想の因縁和合して而も有り。有も本自ら無なり。因縁をもって諸を成ず。煩惱、業、苦は旋火輪の如し。其の本無なるを觀ずること皆上に説けるがし。此れ通の意なり云云。
妙法蓮華經文句卷第一上
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